「観光まるごと北海道」-札幌転勤生活 思いつくまま

2回目の札幌転勤生活を送られている辻聡さんに、札幌への転勤、北海道での暮らしについて、思いつくままに書いていただきます。
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北海道遺産を旅する
 それにしても何なんだ、この暑さは。7月は比較的すごしやすい日が多かったのだが、8月に入り気温とともに湿度が上昇、内地同様の蒸し暑さとなった。8月12日からは83年ぶりという連続4日間、33度超えの猛暑。家にクーラーのない私は、もうグッタリだ。

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 と書いた翌日の16日を境に気温は急降下、オホーツク海高気圧の張り出しで同日の最高気温は27度、そして17日は21度までしか上がらなかった。やれやれである。これでこそ北海道だ。だいたい道民は、暑さにめっぽう弱い。では寒さに強いのかと言われると、氷点下の気温や猛吹雪に慣れてはいるものの、家の中ではガンガンに暖房を入れて寒さをしのぐから、実は寒さにも弱いのではないかと思う。私は神奈川県の出身で、別に道産子ではないけれど、かつての鶴のように痩せていた体型から最近はメタボ状態になってしまったので、暑さがしごくこたえるようになった。冬は大量の脂肪のお陰で、さほど寒さは気にならず。暑い夏と寒い冬では、格段に寒い冬のほうがいいように思える。

 人間の体だけでなく、鉄道のレールも北海道は暑さに弱い。当地では厳寒期に鉄が縮むことを想定してレールとレールの継ぎ目を狭くしているので、逆に猛暑がつづくと継ぎ目の隙間以上にレールが膨張してグニャリと曲がる現象が起きてしまうのだ。これを防ぐために、JR北海道には特別仕立ての散水列車というのがある。散水装置を施したタンク車2両の前後をディーゼル機関車で挟んだだけの簡単なものだが、最高気温が32度以上の予報が出ると定期列車の合間をぬって出動し、線路に水をまきながらレールを冷やす。こんな列車が走るのは、全国でもここ札幌近郊だけだそうだ。冬場に路面電車のレールに積もった雪を跳ね飛ばす「ささら電車」といい、過疎地の交通ニーズにこたえようと実証実験中のDMVといい、北海道ならではのユニークな鉄道風景と言えるだろう。

 さて、この猛暑のなか、先週末は道南の江差町でお祭りを見てきた。姥神(うばがみ)大神宮の渡御祭といっても、内地の人にはほとんど知られていないだろう。私も札幌に転勤するまで、まったく知らなかった。そもそも江差町は函館の西北方の日本海側に位置する、人口1万人ほどの小さな港町だ。民謡の「江差追分」で有名。渡島半島の西側を管轄する道庁の出先機関、檜山支庁の所在地でもある。この江差に鎮座する姥神大神宮は、室町時代の建保4年(1447)の創建と伝えられる北海道きっての古社で、日本全国のなかでも数少ない、壮大な「大神宮」を名乗っている。そしてその祭りの起源は江戸時代初期にさかのぼる。ニシンの豊漁を神に感謝する蝦夷地最古の祭りなのだそうだ。
 3日間にわたって行われる祭りの最終日、私が見たのは「本祭 上町巡行」の日だった。江差の町は駅や檜山支庁舎、繁華街などが所在する高台の上町と、海辺の下町に大きく分かれる。30数年前、夕暮れ時に初めて江差の駅に降り立ち、しばらく町あるきをした後に駅へ戻る途中で道に迷い、危うく最終列車に乗り遅れそうになった経験があるが、当時はこの上下の町の構造をよく理解していなかったのが原因だった。祭り行列は、初日の宵宮祭につづき2日目が下町巡行、そして3日目が上町巡行と決まっているのである。

 夏の夕暮れは遅い。7時半前にようやく夕日が日本海に沈み、あたりが薄暗くなった町に繰り出してみると、電飾でほの明るくなった山車が半纏をまとった町の人々に引かれて路地から路地へと練り歩いている。北海道神宮の山車行列は軟弱にもトラクターなどが引いていたが、ここのは完全な人力だ。17の町会に13台の山車が伝わり、それぞれに笛や太鼓・鉦のお囃子がシンボルの人形を頂いて乗っている。人形は、新栄町に伝わる新栄山という山車は武田信玄、愛后町の神功山という山車は神功皇后といった具合で、江戸時代につくられた人形がそのまま使われている山車もある。お囃子もそれぞれの山車ごとに、またシチュエーションによって3パターンがあるそうだ。13台×3パターンで都合39種類のお囃子があることになるが、よその者にその区別は難しい。

 京都の祇園祭りを直接見たことはないが、ニュース映像などで見物客が立錐の余地もないのは承知している。それに対して江差の祭りは、われわれ外来の飛び入り客でも山車を引かせてもらえるし、何より嬉しいのは沿道の家々--ふつうの民家である--が客間を開放して、引き手や見ず知らずの観光客にも酒肴をふるまってくれる点だ。無論タダ。私も、とある昔は網元だったとかいう豪邸にお邪魔させてもらったが、ご先祖の写真が掲げられた欄間の彫刻も立派なら、二間つづきの部屋をぶちぬいたテーブルの上に所せましと並んだ料理も見事。ひよっとして江差の人は、毎年この祭りのためにお金を稼いでいるのではないかと思えてくる。歴史の浅い北海道ではあるが、こんな祭りが今に伝わるのは珍しく、江差っ子でなくても誇らしい気分だ。民俗学的にも貴重なはずで、だからこそ北海道遺産にも指定されているのだろう。遺産を巡る旅もまたよいものである。

   
| - | 20:24 | - | -
北海道みやげを探す
 夏休みに入り、道内を訪れる観光客が目立って多くなってきた。空港や駅でも大きなラゲージをガラガラと引っ張る旅行者風情が他を圧する。加えて貸切バスの団体さん。みやげ物売り場も芋を洗うような混雑だが、さて、もらって嬉しい北海道みやげは何だろう。

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 あなたの家にもありませんか、埃をかぶった木彫りの熊。粗削りの黒光りする熊が鮭をくわえて、こちらをにらんでいる…。かつての北海道旅行の定番みやげ品で、ご家族や知人が北海道から持ち帰り、そのまま棚の上で忘れ去れているというご家庭は多いはずだ。北海道観光土産品協会によると、30年ほど前の道内の土産品市場500億円のうち、250〜300億円がこの熊だったとされる。アイヌの民芸品で、朴の木や北海道ではオンコと呼ぶイチイの木を削ってつくる。登別や洞爺湖あたりでは民族衣装をまとった人たちが実際に彫っているところを見せていたりするのだが、実はルーツはアイヌではなく、大正時代に道南の八雲町で冬場の農家の副業として製造が開始されたのだそうだ。この地に入植した旧尾張藩主の末裔がヨーロッパ旅行をした際、スイスで見つけた木彫りの熊をまねてつくるようになったのだとか。八雲町には発祥の地を証する碑があり、お手本のスイス熊も展示されているというから信憑性は高そう。アイヌならぬスイスとは知らなかった。

    

 だが、東北地方のこけしと同様、民芸調の熊はなぜか人気がなくなっていく。土産品市場でも近ごろはせいぜい5〜6億円規模の売上に縮小してしまったようだ。筆者が最初に北海道旅行をしたのも今から30年あまり前のことだが、やはり木彫りの熊を買ったような気がする。あのときあった、いやもっとずっと以前から営業していたと思われる加藤物産舘という札幌駅前の老舗のみやげ屋が最近になって店を閉じたのも、熊の衰退と無縁ではないだろう。このほか熊関連では熊肉の缶詰とか「熊出没注意」と書かれたステッカーやTシャツなども目にするが、どれほど売れているものやら。30年前だと、北海道はまだまだ遠い未開の地の印象が強く、未開の象徴が熊であり関連グッズも売れたと推測するのだが、近年は別に未開でもなんでもないので不人気となったのではなかろうか。

  

 かわって北海道みやげの上位の座を占めているのが食品関連である。定番はやはりカニか。鮭よりも高級感があるし、は正月の新巻鮭はともかく、1匹まるごとでは量が多すぎて昨今の少人数家庭には向かない。その点カニは、1匹2匹をまるごと持ち帰っても手頃な大きさで納まるから空港の売店や、札幌市内の中央市場などでも常に人だかりがしている。水産加工品のウニイクラ数の子といった魚卵系も北海道を代表するみやげ品である。また農産品のアスパラガス夕張メロンなども旬の時期は喜ばれるだろう。いずれにせよ、冷凍技術の発達と宅配便などの配送ルートの確立、そして大半の観光客が飛行機を利用するようになって帰宅にかかる時間が短縮されたことが、こうした生鮮品のみやげ化を促したと言えるだろう。地球の温暖化で北海道も気温が上昇し、品種改良の努力もあり道内産の米の味が格段によくなっていると聞く。やがて北海道米の「きらら397」や「ほしのゆめ」「ななつぼし」などがみやげとして珍重されるようでは世も末だ。
      

      

 食品系では、いつの時代どこへ行っても菓子類の人気が高い。ビジネスマンの出張にあっては、皆で手軽に職場で食べられるからだろう。会社のお茶飲み場にカニを買ってこられても始末に困る。正確な統計は知らないが、おそらく売上ナンバーワンは「マルセイバターサンド」に代表される六花亭のお菓子。小豆のふるさと帯広に本拠を置く菓子メーカーで、札幌にもいくつかの直営店がある。石屋製菓の「白い恋人」やロイズの生チョコレートなども根強い人気だ。かつては「山親爺」や「わかさいも」、バター飴といったところが売れ筋だったが、最近はどうだろう。北菓楼の「開拓おかき」特に何種類かあるうちの帆立味がいいとの話を聞き、食べてみたがなるほどうまい。おススメである。

    

    

 しかしながら、最近の一番のヒット商品はカルビーの「じゃがポックル」だ。同社の千歳工場の限定生産で、要はフライドポテトなのだが、皮つきのジャガイモを小さめの釜で小まめに揚げ、独自の加工を施すことでサクサクとした食感が保たれている。たしかに世に大量に出回っている同様商品とは一線を画していると思う。発売当初はあまり評価されなかったらしいが、空港に出入りする航空会社の客室乗務員に試食させ口コミで宣伝したところ、舌ざわりのよさから徐々に浸透し今日の大ブームにつながった。小分けした袋が10袋入って1箱840円。だが、夏の観光シーズン、空港でこの箱を見かけることはまずない。親切な店は「ただいま品切れ」の掲示を出していたりする。運よく入荷したところに出くわしたとしても、1人3個程度の発売制限がなされ、それでも10分もすれば売り切れてしまう状況だ。希少性がさらに評判を高めている。テレビ塔の3階の売店に結構あるとか、さまざまな噂が駆けめぐるが、いまのところラクして買える甘い話ではないようだ。


| - | 23:53 | - | -
札幌の夏まつり
 5月下旬のライラックまつりYOSAKOIソーラン祭りに引きつづき「札幌に夏の訪れを告げる」といわれる北海道神宮の例祭も好天のもと無事終了した。全国的にカラ梅雨模様のようだが、当地も湿度の高い日はあるものの、北海道らしい晴天の日が多くなっている。

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 札幌の祭りといえば、有名な「雪まつり」を誰しも思い浮かべるだろうが、春から夏にかけてだって祭りはある。その一番手となるのがライラックまつりだ。そもそもライラックは「札幌の木」であり、大通り公園には400本余り植えられているそうで、赤紫や白い花をつける。別名リラ。同じ白い花でも、樹木の背丈が高く、6月ごろ垂れ下がるように花が咲くのはアカシア(厳密にはニセアカシア)だ。ライラックは「好きです!サッポロ」という歌の中に、♪雪の重さに耐え抜いた耐え抜いた、ライラックの小枝に花が咲くころ〜、と出てくる。一方、北原白秋の詩「この道」に登場するのがアカシア。♪この道はいつか来た道 ああ、そうだよ アカシアの花が咲いてる〜。現在の北1条通りの情景を歌ったものと聞いた。内地では桜の花が咲くころに冷え込む日を「花冷え」というが、同様にライラックが花をつける時分に薄ぐもりで寒い日のことを、こちらでは「リラ冷え」と呼ぶ。渡辺淳一の小説『リラ冷えの街』で知られるようになった。

 YOSAKOIソーラン祭りは今年が第16回だったから、平成に入ってからのお祭りだ。毎年8月に高知で行われるよさこい祭りを見た北大の学生が、その熱気に感動し札幌の街に移入を決意、音楽をソーラン節に置き換えて始めた。第1回目の1992年はわずか10チームでのスタートだったが、第5回を数えるあたりから100チームを超えて急上昇。ここ数年は300組以上の踊り手が全国各地から参加している。入込観客数も200万人を上回るようになり、開催日数で割れば雪まつりをしのぐイベントに成長したことになる。ホテルも混雑して予約が取りづらくなるほどだ。

 これだけの規模になると踊りのスペースを提供するのも大変で、大通公園西8丁目のメインステージのほかに札幌駅南口広場だったり、市内各所の公園や商業施設のイベントスペースが総動員される。だが、踊り手たちにとってのいちばんの晴れ舞台は、会期末の土曜日曜に大通公園沿いの南北の通り1.45kmを通行止めにして行われるパレードだろう。地方(じかた)車と呼ばれる囃し手や太鼓・三味線、それに大型スピーカーなどを積んだ派手な装飾のトラックを先頭に、鳴子を打ち鳴らしながら各チームがさまざまな衣装で乱舞する様は、まさに壮大なストリートパフォーマンスと言っていい。
 各演舞会場を移動する参加者たちが、そのままの衣装・メイク姿で集団で地下鉄に乗ってきたりすると一瞬ギョッとするが、「ああ、またYOSAKOIのシーズンだな」と妙に納得するまでに定着した感もある。もっとも、彼らの傍若無人の振る舞いが鼻につくとか、踊りも常連チームはセミプロ化し一般人を寄せつけないとか、大通公園沿いの桟敷席が有料になるなど商業化している、といった批判があるのも事実。しかし、今年で4年連続の大賞受賞を果たした「新琴似 天舞龍神」チームの踊りなど、所作もメリハリがきいて、それは見事なものである。だいぶお金のほうもかかっているのだろうが。まぁ、みんなそれなりに楽しんでいるのだから、あまり目くじらを立てることもあるまい。

 YOSAKOIのおおむね1週間後、毎年6月15日に行われるのが北海道神宮の例祭である。昔はこの日を休みにする地元企業も多かったそうだ。たしかに、北海道の場合は5月のゴールデンウィークのころはまだ寒い場合もあるので、6月のこの時期に休みが増えたほうがありがたいような気がする。前日の14日が宵宮(よいみや)祭、16日が神輿渡御(みこしとぎょ)で、市内を神輿や山車が練り歩き、華やかな祭り行列が人目をひく。今年は16日が土曜日にあたっていたので、私もゆっくりと見物することができた。
 午前9時すぎ、神宮を後にした行列は人力車や馬車もまじえながら、維新勤皇隊を先導とした4基の神輿を主に構成される。大国魂神(おおくにたまのかみ)・大那牟遅神(おおむなちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の3神はいずれも国づくりにちなむ神で、明治4年に北海道神宮の前身、札幌神社が造営されたときから祀られていた。昭和39年、北海道神宮と改称されたのを機に、明治天皇も合わせて祀られるようになり、現在は都合4柱の神様が北海道を守護し、祭りの当日、神輿に乗って街の繁栄ぶりをご覧になるのだ。セイヤ、セイヤのかけ声の勇壮な江戸神輿とはちがい、神様は黄衣をまとった担ぎ手の肩に乗せられて、あくまでも静々と進む。実は覆いで隠されているが、神輿は台車の上に乗っているので担ぎ手の負担はさほどではないはずである。このあたりも、合理性に富んだ北海道ならではと言えるだろう。神輿行列の後ろには、いくつかの町内(祭典区)の山車がつづく。笛や太鼓、鉦の音が、そして青空の雲が札幌に夏の訪れを告げている。

  
| - | 10:22 | - | -
20年前の旅日記
 今年は国鉄が分割民営化されてから20年の節目の年である。昭和62年(1987)4月1日、ここ北海道でも午前0時を期して株式会社組織のJR北海道が誕生したのだった。国鉄からJRへ移行のその日、私はまさに北海道を旅していた。今回はその話を綴ってみる。

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 たび重なる転勤や引っ越しで、過去の汽車旅の資料などがすぐに取り出される状態になっていないのは遺憾だが、幸いこのときの旅のメモと当時の時刻表が手元に見つかった。「国鉄からJRへ移行の旅」を私は最北の地、稚内から始めている。稚内7時30分発札幌ゆき302列車、急行<宗谷>。昭和56年の時刻改正までは函館−稚内間をロングランしていた列車だ。かつての北海道の鉄道は、すべて函館中心にダイヤが組み立てられていた。本州からの連絡船が着く港町・函館が北海道の玄関であり、ここから札幌より先、稚内や網走・釧路へ向けて何本もの長距離列車が旅立っていたのである。札幌も単なる中間駅のひとつに過ぎなかったのだ。だが、航空機の台頭により連絡船は本州−北海道間輸送の主役の座を奪われ、呼応して国鉄も重い腰をようやくあげて飛行機との共存をはかるべく千歳空港の隣接地に駅を新設(現在の南千歳駅。当時は千歳空港駅を名乗っていたが、その後、空港のターミナルビルが移転したために新たに新千歳空港駅を建設し、千歳空港駅は南千歳駅と改称した)して空港連絡輸送を開始、ダイヤを函館中心から札幌中心へ見直したのだった。現在<宗谷>は、札幌−稚内間の特急<スーパー宗谷>に昇格している。

 国鉄最後の日、上り急行<宗谷>は何事も変わらぬふうに稚内の駅を淡々と発車した。市街地をぬけ、抜海駅の手前で一瞬、雲の中に利尻富士のシルエットを見る。やがて海辺をはなれ、粉雪を舞いあげながら足跡ひとつない一面の雪原の中へ。信州からの入植者が開いたのだろうか、佐久という駅を通過。「分割民営反対 国労音駅分会」の看板がよぎる。「音駅」とは音威子府駅の略であろう。10時42分、名寄駅着。ここで<宗谷>を捨てて名寄本線のローカル列車に乗り換える。内陸の町、名寄から東進してオホーツク海側の紋別を経由、中湧別で再び内陸へ入って石北本線の遠軽とを結ぶ名寄本線というレールがあったのである。廃止されたのは、この後の平成元年(1989)のことだ。
 遠軽行きの625D列車は気動車1両の編成であった。立ち客もでる満員の盛況だったが、その混雑も5つめの下川まで。下川は最近では内陸の寒さを活かして"アイスキャンドル"という冬のイベントを全道に先駆けて実施している。13時12分、六興駅発車。当時のメモには「晴れていた空から雪がこぼれ、やがて曇り空となった一面から、これでもかというほどに雪が降ってきた」と。遠軽15時28分着、5分の接続で札幌行きの特急<オホーツク4号>をつかまえる。札幌到着、19時18分。

 小憩の後、札幌20時35分発の特急<北斗16号>で函館に向かう。まだ札幌駅は高架化される前で、いまステラプレイスが建つあたりにホームが並んでいたのだった。国鉄最後の日を意識したのだろう、この日の<北斗>は「蛍の光」のメロディに送られて発車した。外は雪が降ったり止んだり。23時59分、大沼駅を通過しアナウンス。「ただいま0時をまわりました。本日よりJR北海道がスタートしました。JR北海道はよりきめ細かなサービスで……」。先ほどまでの「車掌長」の腕章に代わり、キタキツネをあしらったエンブレムを胸にした車掌を地元テレビカメラが追う。ほどなく終着の函館。接続の連絡船は0時40分発の深夜便で、これも同じくJR北海道の所属に衣替えされていた。


 あれから20年。この翌年には青函トンネルが開通し、連絡船も姿を消した。赤字ローカル線の廃止も相次ぎ、現在のJR北海道の営業路線延長は2500キロと、往時の国鉄時代の3分の2ほどである。それでも北海道旅客鉄道株式会社の経営は苦しい。そもそも北海道の鉄道の歴史は運炭線、すなわち内陸部で採掘される石炭を港湾都市の小樽や室蘭へ輸送するための手段として敷設された。その後、道内すみずみまで鉄路がゆきわたるようになると、林産資源の輸送手段としても鉄道は重用されたのである。だが、やがてエネルギーの石油への転換により石炭産業は衰退し、ヤマは次々と閉山。道路網の整備が進むと木材輸送もトラックに置き換えられる。1日に何本もない列車をあてにするより一般旅客もマイカーに移る。鉄路を維持するに足る需要がないので路線を廃止してバスに転換する、という循環に陥ってしまったのだ。

 いまJR北海道が総力をあげて取り組んでいるのはDMVの開発である。DMVとは、Dual Mode Vehicleの頭文字で、鉄道と道路の両方を走れる乗り物のこと。車体はマイクロバスを改造しているので普通の鉄道車両の比べて製造コストが安くてすみ、しかも一般道路にも乗り入れることで利便性が増し、そのぶん利用者増も期待できるというわけだ。
 先月から釧網線の浜小清水−藻琴間で実証実験も開始されている。さっそく仲間と乗り試しに出かけたのだが、その模様はまた別の機会に書くことにしよう。
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